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重要文化財 十一面観音
歴史
700年ほど前の元亨3年(1323年)仏師妙海により造立された。
昭和9年(1934年)に国宝保存法により国宝に指定された。
昭和25年の文化財保護法施行により、重要文化財に指定された。
平成27年(2015年)長野県信濃美術館の「"いのり"のかたち」展に出展し、広く注目された。
特徴
緻密な"かや"材の一木造で、像高は、89.4cm。
長い間秘仏として厨子に納められていたため、保存状態が良く、
約700年を経た今でも虫食いの痕もなく、非常に美しい。
妙海制作の仏像は県下に9体残されているが、本像は妙海の最高傑作とされ、「信濃の中世の仏像の白眉」といわれている。
木造十一面観音立像
この観音像は緻密な榧材の一木造りで、像高は八九、四cm。像の表面は細かい丸ノミできれいにさらってあり、それが一つの装飾であるかのように見えます。長い間、秘仏として厚い欅の厨子に納められていたため、保存状態が極めて良好で、約700年を経た今日でも虫食いの痕もなく、非常に美しいお姿をしています。
そもそも観音は大慈大悲をもって衆生(命あるもの全て)を救済するのを本願とする菩薩ですから、柔和な顔立ちの像が多く見られます。しかし、この観音像は、伏し目がちな両目に水晶の玉眼を入れ、引き締まった頬と口元あたりには生気に満ちた若々しさがあり、凛々しい青年を想わせます。これは鎌倉彫刻の特徴である理知的な相貌につながるもので、さらに、腰から下に見られる衣文は、小像の割に大ぶりで賑やかに、また深く複雑に刻まれ、後期宋朝様式の流れを汲む鎌倉彫刻の特徴がみられます。
十一面観音は、本面頭上に十または十一の面を戴き、どちらの方角にいる衆生が救いを求めていても、必ずそちらを見れおられて救ってくださる霊験あらたかな仏像です。通例の十一面観音は、本面頭上の前三面は菩薩相、左三面は憤怒相、右三面は白い牙を上に向けて出した相、真後ろ一面は大笑いした相をしています。そして頭頂の髻の上に如来相といわれる仏のお顔があります。
ところがこの十一面観音像は、頭頂の如来相は通例の像と同じですが、その他の十面は、正面一面が浮き彫りの化仏(如来)で、他の九面は全てが菩薩相になっています。
この木造十一面観音立像は、元亨三年(1323)正月十四日に、善光寺仏師妙海によって制作されたことが、像内墨書などによって明らかになっています。妙海制作の仏像は県下に九体残されていますが、この内、本像は妙海作品の最高傑作とされ、《信濃の中世における仏像の白眉》といわれ称賛されています。
普門院観音堂十一面観世音菩薩縁起・沿革
今から700年ほど前、鎌倉時代末期の元亨3年、高野山請證寺如法堂の良禅法師が、仏教興隆のため東国行脚のおり当地で霊感を覚え、大慈大悲の観音力を里人に授けようと発願しました。当時この地を治めていた、信仰心の篤い豪族宮所孫次郎神光信が大檀那となって堂宇を建設し、善光寺住侶僧妙海が精魂込めて彫刻した十一面観世音菩薩の尊像を納め奉り、念持仏として朝に夕に礼拝し、国家安穏・民衆常楽・子孫繁栄を祈願したことから始まります。
元禄4年(1691年)には、「信州伊那諏訪八十八霊場」の第十一番札所に選定され、上伊那郷の里人の尊崇いよいよ篤く、60年に一度の開扉大開帳が営まれてきました。毎年四月十九日(現在は五月三日)の縁日には参詣者群れをなし、その霊徳は近郷近在にあまねく讃仰されました。
上島区は大正十三年と昭和十六年の二回大火に遭いましたが、十一面観音様は村人の機転によって運び出され守られました。およそ700年もの間、尊像が戦乱や火災など幾多の危機を免れ、今日ここに存することは、人々の尊崇の念が如何に篤かったかを如実に物語っています。
昭和九年には「国宝保存法」のもとで国宝に指定され、昭和二十五年の新法「文化財保護法」制定とともに、重要文化財に指定されて現在に至っています。
なお昭和四十九年におよそ1ヶ月間、奈良国立博物館の「仏像と像内納入品展」に、全国五十一体の中に加えられ出展されました。また、昭和五十一年、長野県信濃美術館の「善光寺仏師妙海と信濃の仏像展」に、さらに平成二十七年、同館の「"いのり"のかたち」展に出展。解説パンフレットの表紙やポスター・入場券に、尊像の写真が採用されるなど広く注目されました。
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〒399-0493 長野県上伊那郡辰野町中央1番地
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